2022年度

新型コロナの影響がだんだんと緩和してきて、年度の終わりごろには対面での議論もできるようになりました。 大学での業務も従来の運用に戻りつつあり、ようやく研究にも専念できる兆しが見えてきた一年でした。

今年度は昨年度の研究をまとめて論文として発表しました。 内容としては昨年度得られた非可換空間上のテンソル場の定式化(以下の2021年度の記述を参照)です。 昨年度は2次元という簡単な場合を考えていましたが、それを一般次元に拡張して発表しました。 一方、別の論文では行列模型が超弦理論の物体を正しく記述できるかどうかを調べました。 行列模型は超弦理論の完全な(非摂動的な)定式化を与えると予想されているので、当然超弦理論の全ての物質を含んでいることが期待されます。 超弦理論には弦(ひも)だけではなく、DブレーンやNS5ブレーンと呼ばれる多次元に広がった物体が存在します。 この中でもNS5ブレーンは謎が多い物体で、それをどのように行列模型で記述できるのかはこれまで深く理解されていませんでした。 今年度の研究では、行列模型の数値計算を行うことで、このNS5ブレーンが確かに行列模型の枠内に含まれているという強い証拠を得ることができました。

また、今年度から行列模型の新しい解析方法を確立すべく、新しい研究を始めました。 行列模型は非常にシンプルな定義を持ちますが、その解析はなかなか難しく、一般的な解析方法が確立されていません。 Monte Carlo法と呼ばれる数値計算を適用するなど、いくつかの試みはありますが、効率的な計算が難しい場合が多く、新しい解析方法を模索する必要がありました。 そこで、近年注目されているBootstrap法という方法を探ることにしました。 この方法では、行列模型のような自由度の大きい量子力学系でも効率的に計算ができる可能性があり、すでにいくつかの行列模型ではその有効性が実証されています。 本年度はこの方法の勉強から始めて、徐々に深いことを研究できればと考えています。

2021年度

昨年度に引き続き新型コロナの影響で雑務に追われる一年でしたが、非可換幾何学の研究では重要な結果を得ることができました。

一般に中学校や高校で習う幾何学は「可換な幾何学」です。ここで「可換」というのは掛け算の順番を変えても同じであるという性質のことで、例えばx座標とy座標があったときにxy=yxであることを指します。これは当たり前の性質のように思われるかもしれませんが、超弦理論を詳しく調べると、実はこのような可換な幾何だけではなく、「非可換」な幾何が現れることがわかるのです。これはその名の通りxy≠yxとなるような幾何なのですが、数学の分野でも比較的新しいテーマとして研究されているものです。超弦理論を理解するためにはこのような新しい幾何学を知る必要が出てくるわけです。

本年度はこの非可換空間の上で一般的な「テンソル場」がどのように定式化できるのかを理解しました。テンソル場というのはやや専門的な言葉ですが、これは素粒子論における様々な粒子を記述するのに欠かせないものです。例えば重力子やヒッグス粒子などもテンソル場の一種として定式化されます(それぞれ2階と0回のテンソル場)。今年度の研究では、この重要な対象であるテンソル場が、非可換な空間の上でどのように定義されるかを明らかにしました。一般的なテンソル場は非可換空間の上で数学における「行列」を用いてうまく記述することを発見しました。超弦理論は行列模型と呼ばれる行列を自由度とした理論で記述できると予想されていますが、今回の結果を使えばこの関係を深く理解できるのではないかと期待しています。

2020年度

本年度は新型コロナの影響で授業がオンライン化されたり、また新入生の担任を任されたりといろいろな事があり、研究以外の業務が非常に多い一年でした。そのためあまり研究時間が取れませんでしたが、幸いにも優秀な共同研究者の皆さんのおかげで、いくつかの重要な研究成果を得ることができました。

昨年度から引き続き行っている行列の非可換幾何の研究では、新たに「非可換幾何上のラプラス演算子」の構成方法を与えました。非可換空間とは、座標同士が非可換になるように一般化された空間のことです。現実の世界がそのようになっているかはさておき、そのような空間は弦理論にはごく自然に現れます。一方、ラプラス演算子というのは物理をやっている人にはおなじみですが、いろいろな理論に登場する重要な演算子です。特に素粒子を記述する「場の理論」と呼ばれる理論を定義するときに必要になります。本年度の研究では、非可換空間でラプラス演算子をどのように定義すればよいかを明らかにしました。これにより広いクラスの場の理論が様々な非可換空間の上で定義できるようになりました。

またこれまで通常の場(スカラー場と呼ばれるもの)を主に考えてきましたが、本年度は新たに「テンソル場」を研究対象として考えました。重力やその他の相互作用を媒介するゲージ場もテンソル場の一種であり、そのためテンソル場の研究は非常に重要です。今年度の研究では、テンソル場が住む空間が非可換だったらどうなるかを考え、そのような場合のテンソル場の記述について着想を得ました。

2019年度

現実の世界は時間も入れて4次元の世界ですが、理論的にはより低次元の世界を考えることができます。低次元の世界は多くの場合、非常にシンプルであり、理論を詳細に調べられるため、4次元の場合にも役立つような直観的理解が得られることがしばしばあります。これは弦理論等の重力理論にもあてはまります。2次元の重力理論を考えると、それは非常にシンプルな、しかも解ける理論となることが以前から知られていました。本年度の研究では、この2次元重力理論で、空間に境界がある場合を調べました。現実の宇宙に境界があるかは分かりませんが、少なくとも弦理論において、このような状況はD-braneと呼ばれる物体と関係しており重要です。私たちの研究グループでは行列模型と呼ばれる定式化を用いて、空間の境界上にある物理量と、空間内部にある物理量の期待値の間に、非自明な関係式が成立することを初めて示しました。

また、引き続き研究を行っている行列の非可換幾何学の研究では、これまでの枠組みの一般化を試みました。非可換幾何とは大雑把に言うと、座標や関数といった通常互いに可換(掛け算の順序を変えても同じ)なものを、非可換になるよう拡張した枠組みのことです。物理で出てくる「場」というものは関数の一つなので、非可換幾何では場が非可換なもの(行列や演算子)に置き換えられます。このような非可換化の手続きは通常の場に対してはよく知られたものがあったのですが、物理でしばしば登場する「電荷を持つ場」に対しては知られていませんでした。我々はそのような場に対する非可換化の手続きを提案しました。

2018年度

超弦理論はその名の通り弦(ひも)の理論ですが、これがゲージ理論と呼ばれる点粒子の理論と等価であるという予想があります。この予想はゲージ/重力対応と呼ばれており、超弦理論分野における中心的研究テーマとなっています。この対応を有限温度領域で考えると、超弦理論とゲージ理論の相構造が対応することが期待されます。特に、超弦理論にはブラックホール時空と通常の(AdS)時空との間の相転移(Hawking-Page相転移)が存在することが知られており、これがゲージ理論側の閉じ込め/非閉じ込めの相転移に対応することが予想されています。本年度はこの対応において重要となる、ゲージ理論における「部分的閉じ込め相」という概念を提唱しました。この相はその名の通り閉じ込め相と非閉じ込め相の中間にあるような相で、一部の自由度のみ閉じ込めを起こしているような状態です。本年度はこの相を様々なゲージ理論において確認し、その特性を調べました。部分的閉じ込め相は超弦理論における小さなブラックホールがある相に対応することが期待されますが、この対応を調べることが今後の課題です。

一方、以前から継続している行列の幾何学の研究では、行列の非可換幾何における微分同相写像を定式化しました。微分同相写像はアインシュタインの一般相対性理論で最も重要な概念で、相対論は微分同相写像の元で不変なように構成されています。今回の結果を用れば、今後一般相対論を非可換空間の上に拡張した新しい理論ができるのではないかと期待しています。

2017年度

本年度は、行列模型の理解が大きく進みました。行列模型は弦理論やM理論の第二量子化を与えていると期待されているのですが、この模型が本当にこれらの理論におけるすべての物体を含んでいるかどうかはこれまで分かっていませんでした。特に、M理論におけるM5-braneと呼ばれる物体は、弦理論の非摂動効果を考える上で非常に重要になりますが、これがどのように行列模型の枠内で記述されるかは、大きな未解決問題の一つでした。この積年の問題を解決しようと、私は局所化と呼ばれる新しい計算方法を導入し、行列模型の計算を行いました。その結果、M5-braneが場の配位の一つとして実現されることが初めて明らかになりました。

もう一つの進展は、行列の幾何についてです。これは昨年度から引き続いて研究しているテーマですが、本年度は昨年度に発見したことの数学的または物理的な意味が、より深く理解できました。興味深いことに、これまで扱っていた行列の幾何学は、数学においては量子化問題と密接に関連しており、また物理においてはタキオン凝縮と呼ばれる現象と関係していることが分かりました。このテーマについては、数学の国際会議でも講演し、普段接することのない数学の研究者の方々と交流が持てたのは大きな収穫でした。

2016年度

昨年度から引き続き、行列の幾何学の研究を行いました。その結果、情報理論における情報計量と呼ばれる幾何学量が、行列幾何においても重要な役割を果たすことが分かりました。近年、情報幾何と素粒子理論における諸理論とのつながりが話題となっていますが、非可換幾何においても情報幾何との関連があることが示唆されました。非可換空間上で重力理論を定式化できるならば、計量は重要な量であることは間違いないので、今回得た情報計量に関する知見は行列模型を用いた重力の記述を理解する上で重要な役割を果たすと期待しています。

一方、ゲージ/重力対応の数値計算の研究も堅調に進んでおり、これまでにない高い精度で対応関係を検証することができました。この対応は、一見全く異なる理論であるゲージ場の理論と超弦理論が、実は等価であるという興味深い予想です。特に前者は重力を含まず、後者は含んだ理論であることが最も非自明な部分です。もしこの等価性が確実なものとなれば、量子重力の記述を確立する上で大きな足掛かりになると考えられています。本研究では数値的にゲージ理論側を解析し、超弦理論におけるブラックホールの性質が再現されるかどうかを検証しています。計算の結果、ブラックホールのエネルギーがゲージ理論側からも正しく再現されることが分かりました。これは等価性が成立していることの大きな証拠を与えています。

2015年度

弦理論/M理論の定式化を与えると期待されている行列模型ですが、従来の微分幾何を用いた理論の記述との関係性がこれまで理解されていませんでした。行列の記述する幾何学は非可換幾何と呼ばれる、通常の幾何をさらに拡張したものなのですが、この幾何のより深い理解を得ることが、この問題の解決につながると考えられます。このような背景で、私は行列の幾何と従来の微分幾何を結びつける新しい方法を提唱しました。量子力学におけるコヒーレント状態の考えを応用することで、これが可能になりました。

一方、数値計算によるゲージ/重力対応の研究でも進展があり、これまでの研究をまとめた論文を発表しました。この研究ではHPCIの優秀成果賞を受賞しました。