徒然素粒子研究

――研究

とは、一体なにを行うことを指してそのように呼んでいるのでありましょうや。なんとはなしに、文献を読むことや計算を行うというような曖昧模糊たる印象をお持ちの方も少なからずおられることと存じます。

 しかしながらこれは無理からぬこと。たとえば広辞苑に範を求めましても『よく調べ考えて真理をきわめること。』などと、幾許か紋切り型の答えしかございません。無論これは正しいことでございましょう。いや。正しすぎるとでも申しましょうか。

 原義とは少々異なりますが『水清ければ魚棲まず』などとも申します。斯様な頁まで足をお運びいただきました皆様でございます。甚だ失礼ではございますが、『清らかな水』など求めてはいらっしゃらぬものかと承知しております。

 やはり私たちが申し上げるべきは辞書の如き一般論ではなく、私たち自身の研究の様子なのでしょう。ここにございます物語は私たちの生活のほんの些細な出来事にございます。しかしそれを通じて、皆様が将来どのように"研究"へと携わって行くのかを想像する一助となりますことを願っております。



壱. 天地明察


 貞享2年(1685年)約800年という実に長い間使われていた宣明暦が廃止され、貞享暦という新たな暦への改暦が実現された。時の将軍は徳川綱吉。徳川が築き上げた幕府が第5代将軍である。教科書では後年の政策にばかり焦点があてられがちであるが、特に早年においては天和の治と賞されるほどの善政であったという評価も一方では高い。この改暦もまた綱吉が敷いた武断的な文治政治の一面を表わしているようにも見える。
 さて、この貞享暦は本邦で初めて作られた暦であり宣明暦が抱えていた大きな問題点を鮮やかに解決した。宣明暦は元々唐で作られた暦であり、以降の近畿地方での政治的混乱により長らく改訂が行われなかったのだ。特筆すべき問題は宣明暦の使用期限が既に切れてしまっていたこと、すなわち、暦それ自体に生じてしまった誤差が無視できないほどに積み重なってしまっていたことにある。貞享暦はそのような時代的背景の下で作成された。そして、その作成を主導した人物は後に天文方にまで抜擢されることになる渋川晴海その人である。

 突然このような話を始めたことには訳がある。貞享暦作成の過程がまさに研究のそれといっても差し支えがないからである。研究というものに対して多少身近に感じられるような例になるならば幸いだ。
 この時点で内容が気になった方は冲方丁先生による時代小説『天地明察』を、続きのその前に読んで欲しい。著作は主人公である渋川晴海が貞享暦の完成に至るまでの出会いと困難を描く成長物語であり、多少のフィクションが織り込まれているものの精緻なストーリーラインが魅力である。本項の以後の記述で著作の内容に多少触れてしまうことをお断りしておく。

 宣明暦が当時抱えていた問題点については先ほど述べた。研究というもののスタート地点もまた問題点を探り見つめることから始まる。だからと言って「相対性理論は間違っている!」などという超科学をぶってはいけない。課題に辿り着くということ自体がまずは大事な勉強。温故知新の気概が重要なのである。『天地明察』の場合を見てみよう。
 北極出地というものがある。これは全国各地の北極星の高さを測りその結果から緯度を測量していくという測地術の一つである。元々趣味として暦術を嗜んでいた晴海もこの北極出地に補佐役として参加しており、そこで建部伝内と伊藤重孝という二人の人物に出会うことになる。建部と伊藤の両人は暦術のいわば先達であり、晴海はこの両人から測地術に関する数々の技術や宣明暦の問題点を聞かされることになる。
 これはいわばゼミであろう。
 ゼミとは大別すると2種類のものがある。1つは教科書や論文などを何人かで読むというもの。もう1つはトピックの専門家を研究室に招いて、スライド等を用いて実地で解説をしてもらうというものだ。いずれにせよ先行研究についての正しい理解と現状の把握が一義的なモチベーションであり、ここで既に研究が始まっているといっても過言ではない。

 さて、ここで少々生臭い話をしなくてはならない。お金の話である。
 実験系ならばまだしも、素粒子理論という分野でお金というと違和感を覚える方がいるかもしれない。しかしながら現代物理学の計算は往々にして手だけで解くことは困難であり、スーパーコンピュータを用いた計算が併用されることは決して少なくはない。計算資源にお金を使わない場合であっても人的資源が必要な場合もある。例えば、博士研究員いわゆるポスドクという立場の人間は研究者にお金で雇われているのだ。
 『天地明察』の場合もなかなかに面白いエピソードがある。晴海の宣明暦に代わる新しい暦の作成事業のパトロンは保科正之その人だったのである。保科公といえば会津藩の初代藩主であり日本史上に名君としてその名を残している人物である。明暦の大火後の江戸の復興事業や文治政治の推進に心血を注いだ。
 この場合のお金の使い道は人的資源は勿論であるがむしろ政治的資金が主な用途であった。改暦は約800年ぶりの大事業である上に陰陽寮との大立ち回りを演じなければならない。保科公ほどの大人物がついた裏にはそういう背景があったわけだ。
 研究というとお金とは縁遠い世界の出来事であるような気がしてしまう。しかしながら、先立つものはやはりお金なのだ。ただし『天地明察』の場合は事業が下命であったことを、物理の場合の研究との差異として注意しておきたい。研究者の場合は資金の入手に際して例えば科研費などの公募制なのである。

 研究には失敗が付き物だ。日本物理学会という日本の大抵の物理学者が所属する組織があるのだが、その会報によると会員数が約18000人。それら全ての人物が物理について日々熟考しているわけだが、物理という学問体系は依然として深遠でまだ多くの課題が残っている。このことからも研究において成功することが極々稀であることが読み取れるのではないだろうか。
 渋川晴海もまた失敗と挫折とを味わった人物である。
 暦は勿論そうであるが、物理学というものは再現性と予言性とを備えていなければならない。ハレー彗星などは良い例である。1705年、イギリスの天文学者ハレーは彗星の出現を予言した。これは(いくつかの修正の後)実際に観測され、ケプラーの第3法則が正しく成り立っていることが認められた。余談であるが次回のハレー彗星の接近は2061年だそうである。
 閑話休題。晴海もまた予言によって新たな暦の正しさと宣明暦の限界とを広く示そうと考えた。約3年間にわたる「蝕」の発生時刻を新暦と旧暦でそれぞれ予言し、日月の運行でもって暦の裁定を下そうと試みたのである。
 このあたりの考え方は物理学において非常に重要だ。例えば量子力学などは顕著であるが人間が如何に理論体系に対し違和感を抱こうとも理論の是非を問うのは自然そのものなのであり、それこそが物理学の面白さであるともいえる。
 しかしながら、この晴海の「蝕」に関する予言は外れしまったのである。延宝3年、西暦1675年の出来事である。晴海の暦は中国の授時暦という暦の日本向け修正版ともいえるものであった。ところが、この暦には近日点異動の効果が含まれていなかったのだ。このときの晴海が舐めた辛酸は研究職百般にも通じうるものであろう。
 繰り返しになるが研究には失敗が付き物である。大事なことは、失敗の中で如何に成功への鍵を探り当てるかということに尽きる。晴海も失意の中で近日点異動という鍵を見付け貞享暦の完成へと邁進していくことになるのだが、その影には山崎闇斎や土御門泰福、中村タ斎といった多くの共同研究者ともいえる存在があった。

 ガリレオ・ガリレイの時代から数えて約4世紀。一握りの天才が物理学の発展を牽引していた時代は過ぎ去り、物理学の先端分野は多くの研究者達の日々の努力によって僅かではあるが確実に進歩していく時代へと突入した。このような時代背景は共同研究の重要性を示しているともいえる。
 晴海がそうであったように、大事業というものはおよそただ1人の知識や発想で覆いつくせるような代物ではない。数々の専門家が集いその集合知を以って臨む。それこそが共同研究というものである。例えば論文のプレプリントサーバ arXiv( Link )を参照して欲しい。ここにある論文の多くは著者として複数人の名前が挙がっていること、却って如何に多くの研究が共同で行われているものであるかが見て取れると思う。
 先ほど名を挙げた晴海の共同研究者達はいずれも神道や暦法の専門家であり、これもやはり現代の研究に通じるものがあるだろう。晴海が彼らと如何にして多くの困難を乗り越えたかについては、やはり本文である『天地明察』を参照して欲しい。

 ここでは研究というテーマについて、ある程度の一般性を担保しながら渋川晴海による貞享暦作成を例として掻い摘みつつ紹介した。
 まずは先行研究が大事であるということ、研究には実はお金の影がチラついていること、失敗にこそ成功の鍵が隠されているということ、そして多くの研究が共同作業によって行われていること等である。簡単な紹介ではあるが、これが研究という漠然としたもののイメージを形作るための一助となれば幸いである。



弐. 今日の研究会は裸足で


――少し早めに家を出よう

 天気予報を思い出してそう独りごちながら私は下宿先のドアを開けた。轟々と唸る風との扉一枚を隔てた押し相撲に辛くも勝利し、アパートの階段を少しはやる気持ちとともに降りていく。
 時刻は7時半。台風の最接近が11時頃であったことを思い出すに、なるほど確かにこいつは大型なのだと実感する。立ち込める暗雲とは裏腹に私の心持ちはしかし陽としていた。

 今日はかねてより楽しみにしていた研究会『熱場の量子論とその応用』の初日。これは『有限温度の場の理論』を主要なターゲットにした研究会である。全国で様々な研究会が定期的に開催されているものの、自らの研究テーマとちょうど合致するような研究会は稀有な存在といえよう。

 全国から同じ分野を専攻する研究者が一同に介するこの機会。台風などで失うのは極力避けたいものである。
 研究会に出席することの意義は大別して2つある。1つ目は同業者の研究について詳しく知ること、そしてもう1つは自分の研究を発信することだ。これらは論文を読むあるいは書くことによってもなされることではあるものの、やはり直接対面しての議論がもたらす利益は格別のものがあるだろう。また論文は正確さをこそ重視し作成されるものであるのに対し、口頭発表は主張の方法に関して糊代が存在すると言ってよい。
 ともかく、研究会の中止が宣言されない限り不参加という選択肢を取る理由はなかったのである。

 さらに幸いなことに、私のポスター発表は2日目のセッションに割り当てられていた。ポスターを持ち歩くときは折り目が付かないように専用のケースにいれて運ぶことが多い。
 ポスターとは自分の研究を紙に概説したものだ。プレゼンターは所定の場所にポスターを貼り出し、会場を自由に回覧する参加者に対し順次説明を行っていく。口頭発表が発表15分+質問5分のように時間を区切られているのに対し、ポスター発表では例えば2時間いっぱい自由に議論を行えるという点で柔軟性がある。
 だがこのポスター、結構な荷物なのだ。ポスターは発表資料なのでA0のような大きい用紙に印刷されることが一般的だ。そしてそれを丸めて入れるとなると1メートルほどの高さの大きな筒が必要になる。台風の中バズーカを抱えての行軍など御免こうむりたいものである。

 幸いにも雨はまだ降り出していない。つくば駅へと向かうバスの中、会場である理化学研究所への道のりの最終確認をする。
 理化学研究所。通称"理研"は、1917年財団法人として設立された。渋沢栄一が総代を務めたといえば時代感覚が伝わるだろう。その後理研は戦中戦後の紆余曲折を経て、現在では国立研究開発法人として日本の自然科学研究を牽引している。国内はもとよりイギリス、アメリカ、シンガポール、中国にも研究拠点が存在する。今日の目的地は和光市、理研が本部の『鈴木梅太郎ホール』である。

 つくば駅からつくばエクスプレスに乗り込むと同じ腹積もりだろうか、心なし乗客が多いような印象を覚える。押し合いへし合いしながら窓の外を見ると、ちょうど雨だれが車窓を叩きはじめた。だがこの先の乗換えで傘の出番はない。ここまでは揚々予定通りである。
 和光市駅にようやく着いた頃には雨風ともに非常に強くなっていた。もう一度だけ研究会中止のメールが届いていないことを確認し、雨が弱まったその間隙を縫って理研へと向かう。駅から外環沿いを南に進むと研究所然とした一角が見えてくる。整然と並んだ白い棟々が雨雲を背景に良く映えているが、それを楽しんでいる余裕は残念ながらない。雨脚は再び激しさを増し、縦から横から容赦なく吹き付けてくる。傘は全く役に立たないまま、天寿を全うしてしまった。

 這々の体で西門までたどり着き入構手続きを行っていると「久しぶり。」と声を掛けられた。九大のAさんである。
 Aさんとは私が修士2年の時分からの知り合いで学年は1つ上。知識豊富な優しい先輩といった印象だ。入構証を受け取り会場を目指す道すがら、お互いの研究や研究室の近況について蕩々と語り合った。なかなかどうしてAさんの気苦労がうかがい知れるが、お元気そうな様子だ。
 会場に着いたときには2人揃って濡れ鼠になっていた。研究会の開始までまだ1時間強あるが、世話人の方は既に会場に見えていた。台風ということもあり窓の外を心配そうに眺めている。Aさんと一緒に電車や駅の様子などを報告し、ホールで椅子に座るとやっと人心地がついた。

 メモ用に持参したノートが床下浸水していたので、ぱたぱたと悪あがきをしていると見知った顔を発見する。阪大のBさんである。
 研究の世界、とりわけ素粒子理論という分野は実に狭い世界である。研究会に参加し始めてから2〜3年もすればおおよその顔は覚えてしまう。Bさんとは博士1年での国際会議で知り合った。性格も物理の理解も明るいという印象がある。酒豪。
 Bさんもまた学年は私の1つ上。2015年産は身近には稀だ。そもそも博士課程に進む学生自体が多くはないので、このような世代による密度差は珍しくはない。学年の違いがあっても思い切って話しかけてみると、比較的良好な人間関係を築けるかもしれない。

 Bさんの愚痴を頂戴しながらひとしきり笑っていると、さて、我らがK.K.先生が降臨する。
 K.K.先生は筑波大学は素粒子理論研究室の重鎮で、熱血な指導ながらも優しい語り口と柔らかい物腰をもつ不思議な教授である。私も修論の作成では大変お世話になった。
 いそいそと近づいて声を掛けてみよう。

――ポスターの準備はどう?

絶妙なカウンターを貰った。軸足に力を入れて踏ん張り辛うじてファイティングポーズをとる。ダウンこそ免れたもののジャッジの印象は最悪だ。このラウンドはもはや捨てるしかないだろう。
 もちろんポスターの準備は終わっていた。しかしヘビー級のジャブは重い。喝を貰った気持ちで話していると、今日はK.K.先生のポスター発表があったことを思い出した。この嵐の中ポスターは果たして無事だったのだろうか。
 驚いたことにポスターはほとんど濡れていなかった。なるほど雨を割ったのである。K.K.先生の膂力を持ってすれば可能なのだと納得し、明日は頑張りますという旨を伝えて席に戻った。
 席に戻りK.K.先生の様子を再度うかがうとちょうど靴下を脱ぐところだった。ふと周りを見渡せば裸足の教授がちらほら。確かに靴の中は不愉快であるが、40人から裸足の人間が集まっている光景は何とも摩訶不思議なものである。

 手短な開会式を終え研究会が始まった。午前と午後の最初に口頭発表が、その後ポスター発表が行われる。様々なグループの進展や提案の報告は非常に刺激的で、研究会は嵐に負けない勢いを持っていた。
 斯様にして研究会の初日は台風とともに過ぎていき、"熱場"の名に相応しい熱さと暑さに会場は包まれていた。ともすれば気圧されるのではないかという不安もないではない。だがまだまだ初日。山場は明日だ。
 今日は台風で大勢の研究者が裸足となったが、明日のセッションでは私のポスター発表でこそ玄人裸足といきたいものである。そんな過ぎた決意をしながら私は赫々筑波への帰路に着くのであった。

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